刀剑鉴定手帖
霊仙院千代姬→明石藩松平家(1682年 - 1871年)→东京 藤沢乙安收藏(2000年殁)→日本美术刀剑保存协会
还有另外一把铭国行的国宝太刀,当麻国行,是当麻系作品,虽然也是山城国,但和来派关系不大。
明石藩
明石松平家:由结成秀康(御手杵原主人)的六男直良受封
(1682年 - 1871年)
其中以八代当家松平斉宜(なりこと)最为出名(然而不是什么好名声)
昭和12年5月25日に重要文化財指定(旧国宝)。
昭和28年3月31日に国宝指定。
来国行は、織田信長の愛刀「不動国行」や「釣鐘切国行」、「面影」などを残す
長崎為基の佩刀「面影」が伝わり「明石国行」になったという説があるが、面影は三尺三寸の大太刀で、また「明石国行」は磨上されていないため異なる。
面影=明石国行的话,又一把信长刀(可信度低)
面影的经历和明石国行出入较大,面影于1624年和1720年都在池田家留有文献记录
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/192613/2
東京都
鎌倉
鎬造、庵棟、腰反高く踏張あり、鋒猪首。鍛小板目、地沸つく。刃文小乱丁子交り、足葉入り、小沸つく。帽子乱込み、小丸、僅かに掃かけ、彫表裏に棒樋、表掻流し、裏掻通し、表裏樋…
長二尺五寸二分弱 反一寸五厘 元幅九分八輪 先幅六分八厘 鋒長一寸 茎長六寸八分五厘
1口
刀剣博物館 東京都渋谷区代々木4-25-10
重文指定年月日:19370525
国宝指定年月日:19530331
登録年月日:
公益財団法人日本美術刀剣保存協会
国宝・重要文化財(美術品)
来国行の作で作風をよく示し、地刃が健全である。同作には棒樋以外の彫刻は稀有である。
https://www.touken.or.jp/museum/shozohin.html
三鈷柄付剣
三钴剑:剑柄三钴,「钴」即是边锋,三钴剑就是刃带三锋的法器,分别表示佛部、莲花部、金刚部三部,代表能断烦恼之智慧, 为不动明王的法器。
https://tieba.baidu.com/p/1736112986
https://www.oparaq.com/shop/sen/hougu/47774.html
来国行又名来太郎,来国俊又名来孙太郎……
来(らい)一派とは、粟田口一派が吉光を最後に衰退していったのに替わって栄えた一派です。祖は朝鮮半島からの渡来人だと言われています。上のイラストは、来一派の祖である 国行(くにゆき)の作風です。時代の要求に応えた 身幅広く 切先は猪首となった豪壮な姿で、 地肌は粟田口一派には劣りますが 地沸付き、 沸本位の直刃仕立ての丁子刃を焼いています。
来一派と 粟田口一派や 三条一派との違いは、粟田口一派らが 小沸出来であるのに対し、より強い沸出来であるということです。そしてもう1つの来一派の特徴は、局部的に黒っぽく見える異鉄が顔を出していることです(イラストの黒い部分)。これを 来肌(らいはだ)と呼んで特徴としています。
これは鍛錬中に除ききれなかったカスであるとする説もありますが、小笠原信夫氏は『日本刀の歴史と鑑賞』の中で、これは良質の 皮鉄(かわがね)を節約したため、皮鉄が薄くなり、 芯鉄(しんがね)が顔を出した物であるとしています。芯鉄を皮鉄でくるむという工夫は、硬いが折れやすい 玉鋼(たまはがね)を使用しだした、新刀期以降に普及したものと考えられますが( 日本刀の特徴参照)、奈良時代の 蕨手刀(わらびてのかたな)の一分にも芯鉄と考えられるものがあったことから、一分の地域あるいは刀工によってはこういった工夫が既に行われていたのかもしれません。
ちなみに、国行の作に名物不動國行の 小太刀があります。これは残念ながら江戸時代の明暦の大火で焼けてしまい、筑前国の信国重包(のぶくにしげかね)という刀工が再刃(さいば)したものです。再刃とは、焼けてしまった刀身に再び焼き入れを行って復元を試みるものです。
この小太刀は織田信長の愛刀でしたが、本能寺の変によって明智光秀が安土城から奪い、本拠地の坂本城へ持ち帰りましたが、豊臣秀吉が坂本城を攻めた際、落城と共にこの名刀が失われるのを惜しんだ光秀が、城からこの小太刀を投げ下ろし、秀吉に託したという逸話が残っています。
信長は酒に酔うと膝をたたいて、「不動國行、つくも髪、人には五郎左ござ候」と歌ったと言います。「つくも髪」は茶道で使用する名物の茶入れで、五郎左は丹羽五郎左衛門長秀(にわ ごろうざえもん ながひで)のことで、この3つが信長の自慢であったと言われます。
很遗憾,不是大家期待的不动国行呢,药研大哥对不起呀(喂ww
https://www.touken-sato.com/event/katana/2013/11/K-rai_kuniyuki-01.html